カテゴリー「京街道 京橋駅附近」の記事

2010年3月31日 (水)

京街道 5 京橋駅付近

 
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                 京街道 京橋駅南の二人地蔵尊 2010.3.18 撮影:今駒清則
 
 京街道の京橋駅付近の追加です。
 京街道が京橋駅に近づくと京阪電車高架下の道と出合います。写真右の京阪電車沿いの道は新しい道ですが、写真左の道が京街道です。その追分に二人地蔵尊が祀られていました。
 
 

 
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                 京街道 京橋駅南の二人地蔵尊 2010.3.18 撮影:今駒清則
 
 

 口紅をさし仲良く並んだお地蔵さまです。お堂には由緒書きがありましたので長文ですが転記します。

                 二人地蔵尊の由来
  右側小柄の方は交通災害の身代り地藏さんで、左側の方は長寿と厄除けの護り地蔵さんであります。
  身代り地藏さんは昭和二十年八月大東亜戦争の終末を告げる頃、当地京橋付近の大空襲の際に、どこからともなく現われた不思議な方で、たまたま本年春頃、この路上に於て自動車の激突事故が発生し、双方の車は接触したまま鯰江川に向かって二転三転したにもかかわらず、運転手にはかすり傷一つなく、エンジンがかかっているのに火災も起らず、気のついた時はこの地藏さんの首だけが飛散していたのであります。
 目に見えないこのお加護と人徳に対して、住民は勿論、特に運転をされる者からは生き仏様として尊敬されるに至ったのであります。
 護り地藏さんは幾度ともなく傷つかれたこの身代り地藏さんをたすけて、鯰江川の埋めたて、新京橋駅と商店街建設工事などに絶対無事故であることを祈願し、併せて野田町から片町へと町名の変更、世紀の万国博覧会の開催、明治百年祭にあたるなど、もろもろを記念して奉祀されたのであります。
 爾来住民は、この両地藏さんは願いごとを必ず果たして下さるものと信仰し、地蔵菩薩十福の恩恵に浴すためにも七月二十四日の祭典日にこだわらず、老若男女事あるごとに感謝祭をおこなうことになったのであります。合掌
 昭和四十四年四月/主催 野田町 千寿会/後援 町内有志一同

 地元で崇敬されているお地蔵さまのようですが、この地域の現代史が分る内容でもあります。

   <転載中ですので前編は こちら をご覧下さい。>
 
 
 
 
 

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2010年1月31日 (日)

大和街道(古堤街道) 1 京橋駅付近

 

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京街道と大和街道(古堤街道)の分岐点にあった道標 2010.1.9  撮影:今駒清則
 
 

 先の京街道に続いて、今の京橋駅付近で京街道から分岐して生駒山を越え、奈良の生駒市へ向かう大和街道(古堤街道)の京橋駅付近を見てみます。
 道標は「京街道(その2)」に掲載した写真の角度違いです。京街道と大和街道(古堤街道)の分岐点にあった道標で、「左 京みち」「右 大和 なら のざき」「右 大坂」「文政九丙戌年九月吉日」(文政9年は1826年)と刻まれています。なお今この道標が置かれている所は、かって京阪本線が通っていて、下の1929(昭和4)年の地形図の(4)の所に相当します。京阪本線が直線化(12)されると軌道は撤去されて道路になり、その跡はコムズガーデン(14)で一部消えていますが道筋にその名残が残っています。衛星写真地図で見るとその痕跡が良く分ります。コムズガーデン西端の(5)には文化年間(1804~18年)の京橋延命子安地蔵尊が安置されています。またすぐ北の国道1号線(11)は工事中で、鉄道までは敷設されていますがその東はまだ開通していません。

 
 

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1929(昭和4)年の地形図に赤色で現在の建物と鉄道を着色 作成:今駒清則
 
 

 この1929(昭和4)年の地形図に番号をふっていますので以後にそれぞれの説明をします(1 ~ 3、6 ~ 11 は1929年地形図にあるもの。 4 ~5、12 ~14 は現在の建物などで、それぞれに彩色加筆しました)。(衛星写真地図も参照ください)
 「京街道」の掲載に江戸時代から明治時代の絵図・地図を使用しましたので、今回はその後の地図を使用してみました。この昭和初めの地形図は全体的に現在に近いのですが、埋め立てられる前の鯰江川(2)があり、正確に読みとれます。

 先の「京街道」の説明と重複しますが、京街道は大坂から(1)の寝屋川(古大和川)に架かる京橋を渡り、片町を経て(2)の鯰江川に架かる野田橋を渡り、鯰江川(2)沿いの京街道(3)を北東へ、坂口(現在の京阪京橋駅付近)で京街道は榎並水道(8)に沿って北上、大和街道(6)は分れて鯰江川の土手で東へ向かいます、
 先の道標はその分岐点にあったはずですが、その分岐点は明治の地形図と併せ考えて(12)の京阪京橋駅・京阪モールの南側と考えられ、その道がほぼ鯰江川(2)(現在は道路)に沿っているので間違いないだろうと思います。興味深いのは新しい京阪京橋駅京阪モールの建物の南側の形が、かって鯰江川の荷揚場で船溜りがあったであろうと思われる川の形に沿って造られていることです。この荷揚場・船溜りは前掲の1806(文化3)年「攝州大阪地図」と、1887(明治20)年の旧版地図でも確認できます。(続く)

 
 
 
 

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