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2010年9月 9日 (木)

明治の奈良市 「きたまち」

 

Kitamachi_mapion

奈良市・「きたまち」の100年前 Mapion地図 作成:今駒清則
 
 

 奈良・興福寺や「ならまち」の北を最近は「きたまち」と呼ぶようになりました。ここも南の「ならまち」に引けをとらない古い町並みです。地図は現代のMapion地図に明治の1908(明治41)年測量の大日本帝国陸地測量部地形図を重ねて、緑色で約100年前の町の範囲を示したものです。掲載地図の範囲は、北は一条通の法蓮町や手貝町。南は近鉄奈良駅や興福寺、東は東大寺戒壇院、西は油阪町になります。地図では中央がぽっかりと空いていますが、奈良町を始め和州を支配していた奈良奉行所があったところで、現在は奈良女子大学になっています。参照した明治の地図が一面の畑地になっていたので町並みには含めなかったのですが、江戸時代は当然ながら町並みが続いていたわけで、周辺は商家や職人の町として栄え、今もその名残を留めています。また東端を南北に通る京街道に沿って旅籠や商家が建並んでいて、寺社参詣で賑わった奈良町の佇まいの一端が偲ばれます。(別項 大和/歴史の<明治の奈良市「ならまち」>も参照下さい)

 
 
 
 

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