二上山の霧
北の国は雪だというのに大阪は暖かく、春雨のような雨がシトシトと降りました。それでも午後には上がって遠い二上山に霧が立ち上がっていました。でも関西では3月に冷え込んで中旬に大雪が降ることもあり、それで冬が終わって駆け足で春が来ます。「お水取りが終わると春が来る」と言われていますがまさにその通りで、その東大寺二月堂の修二会(お水取り)の本行が明日から始まります。
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北の国は雪だというのに大阪は暖かく、春雨のような雨がシトシトと降りました。それでも午後には上がって遠い二上山に霧が立ち上がっていました。でも関西では3月に冷え込んで中旬に大雪が降ることもあり、それで冬が終わって駆け足で春が来ます。「お水取りが終わると春が来る」と言われていますがまさにその通りで、その東大寺二月堂の修二会(お水取り)の本行が明日から始まります。
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京都の金剛能楽堂へ、その前に近くにある京都御苑の梅はいかがかと廻ってみました。梅林全体の開花にはまだまだ早く、早咲きの樹の数本が満開になっているだけでした。
金剛定期能は能「芦刈」金剛龍謹師、舞台への自信ができたのか堂々とした演能、これからが楽しみです。狂言「舎弟」茂山逸平師ほか。仕舞「巻絹」金剛永謹師。能「雲林院」松野恭憲師、桜花満開の雲林院で「伊勢物語」の業平が序ノ舞を舞う風雅な能。桜の咲くのが待たれます。
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総武線で隅田川を渡る時(衛星写真地図)、かなりの高さになった東京スカイツリーが目立ちます。
両国の江戸東京博物館の広い敷地からも東京スカイツリーが望めます。もうちょっとで600mの中国・広州テレビ塔を超えて世界一の自立式電波塔になるそうです。
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例によって午前中は美術・博物館巡り、今回は江戸東京博物館で開催中の「140年前の江戸城を撮った男 横山松三郎展」へ。江戸が明治に変わる頃に活躍した写真師。コロディオン湿板や鶏卵紙による展示で写真史では知られた写真が多いのですが、横山松三郎は相当な絵心があったようで、自筆の油絵や、「写真油絵」と称した油彩写真も展示されていました。当時の写真は引き伸ばしをしないために画質は細密ではあるもののモノクロームのため、写真帖やプリントの販売に当たっては彩色をした例も多く、その延長の工夫なのか横山は乳剤面の裏から油彩を施した独特の技法の写真も創作していました。単なる写真師でなく新進の気風に満ちた人物であったことがよくわかる展覧会です(3月6日まで開催)。
今日の東京は特に暖かく20度ほどもあり、コートを着ていると汗が出ます。それで気象庁は今日を春一番としました。江戸東京博物館の敷地にある休憩所ではこの暖かさでつい居眠りをしてしまった人も。
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東京・四谷のポートレートギャラリーで能楽写真家協会の能楽写真展 2011が始まりました。全国の能楽写真家の舞台写真が一堂に揃っています。東京では2007年の写真展以来の開催です。初日の閉館後、関係者によるパーティが会場で開かれ懇談しました。
写真展の会期は3月2日(水)までで無休で開催です。(但し最終日は午後2時で閉館ですのでご注意下さい。)
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所属する能楽写真家協会の能楽写真展が明日24日にオープンします。会場は東京・四谷のポートレートギャラリーで、24日午後遅く、また25日午後は会場にいる予定です。詳細は能楽写真家協会のホームページをご覧下さい。
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竹ノ内街道にほど近い石光寺に立ち寄ってみました。近くの當麻寺や和歌山県有田市の得生寺と共に中将姫伝説のお寺の一つです。
ボタンの寺で有名で、境内は隙間もなくボタンやシャクヤクが植えられています。寒ボタンもほぼ終わったころですからほとんど花は無く、蕾をつけてきた春ボタンまでしばらく待たなければなりません。
境内には季節柄、紅梅、白梅、蝋梅が少し咲いていました。ちょっと春が近づいてきたようです。
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昨日の午後遅くから激しい雪降りでしたが、撮影に出かけても日暮れになってしまうため断念。雪は夜明けに降り止み大阪でも真っ白な世界になっていたのですが、水分の多い雪なのか融けるのが早く、朝からみるみる融けて、お昼までに大阪の街には雪は残っていませんでした。そこで午前中の仕事を済ませた後、山あいの雪を求めて二上山麓へ。
二上山を奈良側へ下ると、竹内の入口に坐す菅原神社の灯篭には「竹之内村」と刻んであります。
菅原神社からは竹内の里(衛星写真地図)と、その先遠くにこの竹ノ内街道の終着点、飛鳥が望めます。
難波と飛鳥を結んだ古代からの道の脇には清冽な雪解け水が流れていました。
竹内には見事な大和棟の民家が数軒あります。雪の大屋根も美しいものです。
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最近は身近なお店の閉店が相次いでいて、なにかが変わって行くことを感じています。まず30年以上お世話になった歯科医院が廃業、そこで急いでいろいろ予防を含んだ処置をして頂きましたが、まだ少し残っていてどこか新しい医院を探さねばなりません。文房具屋さんも1,000円程の私のポイントを残したまま閉店されてしまいました。月刊誌の配達をして頂いていた本屋さんも高齢化で廃業です。街でも個人商店の専門店がいつのまにか閉店されていてコンビニばかり増えてきました。
近くにあるデパートのような全国展開の大型スーパーも閉店しました。閉店日にのぞいてみましたが2~5割引なので店内は大混雑、その買い物客の凄い迫力に押されてとても近寄れず、牛乳1本を買っただけで帰りました。店内のあちこちでは空き棚が目立って、この様子では閉店時間までにすべて売り尽くされてしまうことでしょう。
夜9時の閉店、大型スーパーの前にすごい人だかりです。別に店が呼びかけたわけではないようですが、閉店にあたって店長らスタッフによる感謝の挨拶に閉店を惜しむ人たちが集まったもののようです。
開店から20数年ですから地域との結びつきも強く、ご婦人客がスタッフと握手や涙のお別れ、最後のシャッターが降りかかると私の横にいた小学1年生ぐらいの男の子がシャッターに向かって棒立ちのまま号泣し続けました。小さな頃からこのスーパーで母親と買い物に来てお菓子を買い、遊技施設で遊んでいたことでしょう。子どもたちにも楽園だったこのお店が無くなってしまう悲しさがよく伝わってきました。スーパーへは最高の餞です。
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奈良は大阪以上に積っていて10センチほどです。お昼過ぎまで雪降りで遠方の視界がきかないので大和農村の周辺を撮影。久しぶりに長靴を履いて畦道を歩きます。
大和の農家は集村で家々は高い塀に囲まれているのが普通です。ですが珍しく生け垣のある農家の庭で梅の蕾がふくらんでいました。
家の造りは大和棟が普通でしたが今は大変に少なくなりました。
視界が良くなったので帰りがけに西ノ京・薬師寺の双塔を撮影に勝又池(大池)(衛星写真地図)へ。薬師寺の西にある池からは春日山、若草山、東大寺大佛殿、興福寺五重塔を背景に薬師寺が良く見える所で、何時でもカメラマンがいます。この時もこれ程。雪の降り具合で一日に何度も足を運んだ方もおられたようです。
ありきたりの写真ですがこの時の薬師寺の雪景色。この右側の東塔(奈良時代・国宝)は昨年中に110年ぶりの解体修理にかかる予定だったのですが、工法の再検討で延期されてまだその美しい姿を見ることができます。工事着工は未定ですが年内には覆屋で隠れてしまい、この景観はそれから9年間にわたって見られなくなります。
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数年ぶりに大阪でも「大雪」になり5センチほど積りました。それ程の雪で「大雪」とは北国の人たちには笑われるでしょうが、めったに無いことなので多少大袈裟に、ただ新聞も「大雪」を使って報じていました。朝、日本道路交通情報センターの道路情報を見ると阪神高速道路は黒線になっていて全面閉鎖されています。雪に慣れない所なので大事をとったのでしょう。
今日は私の所属する写真団体・水門会の写真展作品の審査が奈良で予定されていたのですが、昨夜「明日は雪が積りそうなので審査は延期します。どうぞ撮影に出かけて下さい」とありがたい連絡がありました。この辺りが写真家仲間の良いところです。で用意しておいた道具を持って朝から大和の農村へ。
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JR大阪駅の歴史写真が「大阪ステーションシティ」のホームページにアーカイブされていることを先日お知らせしましたが、別にこんなところにも1955年頃の大阪駅付近や中之島付近の映像があります。
戦後NHKラジオで長沖一の連続放送劇「お父さんはお人好し」が放送され大好評でした。それを1955(昭和30)年に大映映画が斎藤寅次郎監督で映画化しこれも大好評でした。主役に花菱アチャコ、浪花千栄子、ほか堺駿二、益田喜頓といった喜劇役者で固めた娯楽映画で、大阪・天下茶屋の果物屋を舞台に、夫婦と13人の子どもがさまざまな事件を乗り越えていく人情物語で、中には與安丸でシベリアから引揚げてくる場面もあり、さまざまな場面が戦後の暮らしをよく反映している映画です。映画の中身を分析するとこれはこれでなかなか興味深いのですが、それはさておいて、この映画の冒頭には大阪の風景が映し出されています。
冒頭のタイトル、配役名と共に阪神百貨店の上から国鉄大阪駅を写し(上の写真)、阪急百貨店、曽根崎警察署、と南へパンニングします(衛星写真地図)。次は中之島の朝日新聞社の上から、まだ更地になっている新ダイビル付近、日本銀行、堂島川、大阪市役所、土佐堀川、住友銀行ビル、今は無き西横堀川、大同生命ビル、錦橋、四ツ橋筋、大空襲にも奇跡的に焼け残った江戸堀の町並みが映し出されます(衛星写真地図)。次いで舞台地の天下茶屋付近?(衛星写真地図)から大阪中心部方面をパンして天下茶屋の果物屋へカメラが入ります。ここでは大阪大空襲で焼けたあと建てられた木造住宅の家並の彼方に大阪城天守閣だけがくっきりとそびえ建つシーンが見られます。またラストシーンも難波・高島屋からまだビルの少ない御堂筋を映し出します(衛星写真地図)。
この映画がパンニングする各画面をキャプチャしてパノラマ写真を作成してみましたので貴重な歴史写真ができました。映画の著作権の関係でここに掲載できませんので、機会があればどこかでこの映画をご覧頂きたいのですが(注:DVDにはなっていないようなのですが)、終戦後10年の大阪なのによく復興していることや、写っているビルのほとんどが現在では建替えられてしまっていることがよく分ります。当時の制作は記録を意図したものではなかったのでしょうが、今では貴重な記録になっていることに映像や写真の特性があります。
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JR大阪駅の駅ビル大改造工事で駅構内が壁ばかりの通路になっていますが、北側に抜けたところにできた吹き抜けに大時計がありました。いまはまだ止まっていますがまもなく動きだすことでしょう。
駅の北側、ヨドバシカメラの付近からは姿を現した駅ビル「新北ビル」の正面入口が見えます。南側の増築改造と併せて完成したら5月に「大阪ステーションシティ」としてオープンです。なおこの「大阪ステーションシティ」ホームページ内の「ステーションギャラリー」には大阪駅とその周辺の歴史写真がアーカイブされています。昭和34年撮影の航空写真では先日4日に掲載した西梅田の旧大阪中央郵便局西に開発されたオフイス街・ガーデンシティが貨物駅の掘割であり、まだ貨物が鉄道と水運を利用していた頃の珍しい航空写真が収録されています。
その梅田の貨物駅が移転することで跡地利用に関して「北梅田プロジェクト」が組織され、愛称だけは「うめきた(梅北)」と決りましたが、これだけの巨大な跡地利用に都市計画から必然性のあるプランですぐに実行されない現状に大阪市の将来計画への無策ぶりがうかがえます。ただ北ヤードの東側は民間開発で「大阪駅北地区先行開発区域プロジェクト」がショッピング街、オフイス街、高層マンションとして一足早く2013年に完成予定とのことです。また鉄道網の再編成も計画されているようで、JR、大阪市営地下鉄、阪急などが大阪駅での乗り換えの利便性を中心に、路線の延伸なども検討中とのことです。
東京のように雑木の丘陵を開発した都市は緑が多いのですが、大阪市街は埋め立てでできた都市ですから、もともと樹木が無い訳で、現在でも極端に緑の少ない街ですから都心に森を造って少しでもうるおいのある街になったらと私は思っているのですが。
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このところの寒気で縮んでいましたがこの数日やや暖かくなったこともあり街に出かけました。
JR大阪駅の西、旧大阪中央郵便局から西へこの10年ほどに新ビル街が延びてガーデンシティと名付けられたオフイス街には高級ブティックが連なっています(衛星写真地図)。
西梅田を歩くと街角のあちこちにオブジェがあります。八重洲や丸ノ内の東京駅付近のオフイス街もかなり設置していますが、大阪とは指向しているアートがかなり違っているように思います。
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まったく忘れていたのに子どもの頃のことばを唐突に思い出し、それが何だったのか考えたり調べたりすることがあります。例えば「粉末ジュース」、今はポカリスエットやコーヒー、緑茶などに粉末のものがありますがジュースは見かけません。その「粉末ジュース」は戦後の子どもには実に甘露なものでした。黄色いオレンジジュースだったのか、また水色のソーダ味のものがあったのか記憶が曖昧ですが、コップに入れて水を加えればでき上がり、時には小袋の中に指を入れて舐めると濃厚な味でその独特の甘みを今も思い出します。あの甘みはクセの強い甘味で、チクロとかサッカリン、ズルチンだったようで、それらに食品への規制が始まった頃にはこれを卒業していて関心も無く、何時頃に世の中から無くなったのか分らないのでウイキペディアを見たら1970年頃に姿を消したようです。
ついでに「ダバス」も突然に思い出した一つです。これは大型黒色の二枚貝を三河地方では「ダバス」と言っていました。「ポンツク」と呼んでいた子どもたちの川遊びの魚捕りの時、魚以外に「ツボ」(タニシ)はよく捕れるのですが「ダバス」はなかなか見つからないので捕れたときはとても嬉しかったことを思い出しますが、さてあれはなんだったのか、これも調べてみたところ、どうも「イシガイ」のようです。「ツボ」は美味しいのでよく食べましたが「ダバス」は食べたのかどうかどうも思い出せません。
「ポンツク」や川釣りは子どもの頃、夏には毎日やっていた楽しい遊びです。街から少し外れれば水田や小川があり、また矢作川もありました。家族があきれるほど毎日毎日魚捕りの各技法を試していたものです。写真は1960年に撮影した「ポンツク」の様子。
網(二手網? 呼び名は忘れました)で捕る素朴な「ポンツク」です。4、5人で遊んでいました。50年前の撮影ですからこの少年たちも今は還暦を迎えていることでしょう。それに今の子どもたちはこういう遊びをしているのでしょうか。学校や親が規制をしていなければ良いのですが。
この三河を離れてもう半世紀が過ぎました。思い出そうにも時も距離も遥かなことでその手がかりすらありません。なにかご存知のことがあればどうぞお教え下さい。
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