白壁
2025年4月20日
伝統的な建物ですがモダンです。
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2025年4月20日
伝統的な建物ですがモダンです。
2025年3月18日
徳川によってすっぽりと埋め立てられてしまった豊臣期大坂城。1984年に発掘し発見された豊臣期大坂城の「詰ノ丸」石垣を見せるため、この度「豊臣石垣館」として2025年4月1日(火)にオープンされます。場所は本丸天守閣の東南にある「金蔵」の隣りです。
館内にあるのは、豊臣秀吉らが居住していたとされる「詰ノ丸」の石垣だけです。また別室で映像「日本一の石垣の城 大坂城~激動の軌跡~」も上映されています。
豊臣期大坂城の本丸にあたる「詰ノ丸」の東南角の石垣は野面積みで、角石は算木積み、石は自然石に一部転用石が使われています。
上部から見ると、石垣の裏側に詰めた「裏込め石」の状態がよくわかります。
なお館内解説にシンクロして、石垣への照明の色や明るさが目まぐるしく変化するため、石垣をじっくり鑑賞したいのにそれが邪魔になって不快な気持ちになりました。
1984年に発掘された豊臣期大坂城 詰ノ丸 東南隅石垣
1984年 撮影:今駒清則
1984年に大阪城本丸の水道管工事の時に石垣が発見され、発掘調査が行われて豊臣期の石垣が姿を表しました。写真はその時のもので、「詰ノ丸」より一段下の「中ノ段曲輪」から石垣角を見上げています。この石垣の上には隈櫓があったのではとの見解があります。
発掘後は埋め戻されていたのですが、今回再発掘し「豊臣石垣館」としてこの石垣が公開されることになりました。
大阪城では数多くのボーリング調査などが行われていて、1959年の調査では戦火に遭った豊臣石垣が発見されており、また2016年にも「詰ノ丸」の発掘調査が行われています。(このHPの「豊臣大坂城の痕跡 」の項を参照下さい)
2025年1月16日
趣のある家がどんどん少なくなってきました。
油煙墨所 宮武春松園の看板 2025.1.16
撮影:今駒清則
2025年1月16日
奈良で製墨をしていた宮武春松園の看板を見かけました。
看板には「文明/(屋号)/宮武春松園/御油煙墨所/金子屋佐十郎」とあります。
宮武春松園は1717(享保2)年創業とされ、1920(大正9)年に複数の製墨会社と合併して大日本製墨株式会社となり、現在は日本製墨書遊になっています。
宮武春松園についてはwebに「春松園古墨博物館」があります。
2024年8月6日
原爆で辛くも残った陸軍被服支廠。取壊しが検討されたが今年に重要文化財に指定され、耐震改修などが行われる。
2024年8月6日
1945年8月6日8時15分、この島外科の上空600メートルで原子爆弾が炸裂した。
「焼け佛」 今駒清則
2024年5月17日
いよいよ興福寺の五重塔に足場とクレーンが登場しました。7年後に保存修理が完成する予定です。
興福寺五重塔修理工事について(興福寺)
2024年5月3日
日本人は緑も青と呼んでいます。
![]() 新賀町市杵島神社「雨乞奉納」絵馬(なもで踊り絵馬) 2008.12.2 撮影:今駒清則 ![]() 新賀町市杵島神社「雨乞奉納」絵馬(なもで踊り絵馬)部分 2008.12.2 撮影:今駒清則 |
2023年3月16日
以前に記録していた絵馬の写真を分析してみました。橿原市新賀町の市杵島神社に掛けられている「雨乞奉納」絵馬で、内容は「雨乞い」の満願成就を感謝し1880(明治13)年8月に奉納されたもので、新賀村を俯瞰し、中心に市杵島神社、周囲に民家、環濠、田畑、米川、そして人物は神社周囲で踊る人々と、農作業をする人々を描いています。
この絵馬の特徴は、大太鼓を打つ人や、榊に紙垂を付けた幣を両手で拝むように持ち、道で三々五々踊り歩く多くの人々が描かれていて、大和の伝統的な「なもで踊り」と思われます。さらに雨乞いが叶ったため、田畑で農作業に励む人々の姿や、村の環濠も描かれていて優れた絵画でもあります。
詳しくは 「なごりすとのページ」をご覧下さい。
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